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ニート気質な僕の生きる道

仕事を辞めて無職でニートになった僕がどう生きていくのかを綴った日記です。またニートやひきこもりなどなかなかうまくいかない人が一歩踏み出せるような、後押しができるような記事も書いていきたいと考えています。

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すべての教育は「洗脳」である読了。堀江貴文さんが考える教育論とは?

堀江貴文さん関連 本の感想(ジャンル問わず)

僕はここ最近堀江貴文さんに注目していて、彼の言動や書籍などを色々チェックしている。そんな堀江さんが「教育について本を出した」ということで迷わず購入。その本がこちら。

 

 

非常に刺激的なタイトルだと思う。人によっては「なんだと!?」と反感を買ってしまいそう。でも中身は非常に興味深い一冊なので、今回はこの本に書かれている内容や読んだ感想など書いていこうと思う。

 

学校は洗脳機関である

堀江さんは本書の第一章でズバッと「学校は洗脳機関である」と言っている。

 

たとえば僕らが「常識」だと思っている事柄。受験をし、学校を卒業し、就職をする。そしてよく分からないルールにしばりつけられ理不尽なことに耐えて従順に上司の言うことを聞かなければならないといったもの。それらは学校教育で植え付けられたモノであるというのが堀江さんの主張だ。

 

では何故そう言った常識を僕らは植え付けられているのだろうか?それは「従順な家畜」を育てるため。学校を卒業すると多くの人は企業に就職をするわけだが、企業側からすると自分たちの言うことを聞き、なおかつ理不尽な要求にも耐えることのできる従順な人間がほしい。そのための養成機関が学校であるというわけだ。

 

確かに今振り返ると学校には意味不明なルールも多いし、理不尽なことも多い。授業してていきなりキレ出す先生とかいた気がする。単に注意すりゃいいのに、いきなり頭ごなしに怒りだす。そういう先生でも言うことは聞かなきゃいけないわけで学校っていうのは「上の人の命令を従順に聞く」っていう点では洗脳期間だったのかもしれない。

 

じゃあなんで学校制度がつくられたのかというと、産業革命期のイギリスにまで話はさかのぼる。この辺もしっかり網羅しているのは堀江さんが幅広い知識を持っている証拠だろう。

 

産業革命期のイギリㇲでは

 

「大量生産を目的とする工場で労働し、その報酬をもらう」

 

という新しい働き方を一般庶民が得ることになった。工場を運営するのは金持ちの資本家である。彼らは「いかに工場を効率よく運営していくか」ってことを考え始めるわけだ。

 

そこに政府が主導して作った学校が登場する。

 

学校の役割は当時労働力として使われてしまっていた子供を保護すること。ゾッとする話だが、あの当時の子供っていうのは大人と一緒に普通に働かされていたりしたのだ。でも、そもそも大人と子どもじゃあ体力からして違うので子供たちがバッタバッタと死んでしまっていた。そういう子供たちを護ろうというのまず一つ。

 

そしてもう一つは子供たちを「工場労働者として育て上げる」ということだ。どちらかというとこちらの方がメインの目的だったのではないだろうか?

 

確かにこれはうまいやり口だと思う。工場労働者といっても読み書きも出来ない、ルールを守らない、能力が低い人たちが集めてもそれは生産性が高まることにはつながらない。だからまず学校に入れてそういう人材を育ててしまう。読み書きがしっかりできてコミュニケションもとれて、ルールも守れて、上司の言うことをしっかりきいて、理不尽なことにも耐えられる、そんな人を学校という場所に集めて育て上げるというのを政府が主導してやっていたという。

 

これはイギリスの話だけど、日本の教育制度も同じようなもの。全体行動を強いられたり、先生(ボス)の言うことは絶対であるというルール。そういったことを子供のうちから叩き込まれていて、それが今も続いている。

 

そんでやっぱりこの本にもあるように「学校は洗脳機関だなー」と思うニュースがつい先日耳に入ってきた。

 

 

http://mainichi.jp/articles/20170109/ddm/013/100/014000cmainichi.jp

 

この道徳の教科書に関して僕なりに考えも書いた。

 

reon5653desu.hatenablog.com

 

 

道徳という正解がないものに対して国が「これが正しいのですよ。」と押しつけ、それにそった内容の教科書が作られ授業が進められていく。しかも曖昧な評価基準にもかかわらず成績までつけられる。

 

僕は道徳という授業をみんなで考えるのは悪いことではないと思う。1つの事例に関してあれこれみんなで議論をし考える。その中で「100%これが正しいなんてことはない」というのを知ること。「人によって考えることが違うのだ」というのを身をもって感じること。その経験が子供たちを将来寛容な人に育て上げる基礎となるのだと思う。

 

だが今のところそうではないようなので非常に残念だなと思うし、すぐにでもやめてほしいなぁと思う。

 

ちなみに本書の中で堀江さんも道徳について言及している。

 

さらには「道徳」の授業だ。「家族は仲良くしなければいけません」「他人に迷惑をかけてはいけません」。そんな道徳的価値観を、誰もが学校教育を通じて学ばされる。これも元をたどれば、戦前の学校にあった「修身」という科目の名残である。

お涙頂戴の物語や、予定調和の議論で子供の道徳的精神を育もうだなんて、おせっかいを通り越してバカバカしいの一言につきる。それを教える教師も、教わる生徒も、ほとんどは「くだらない」と思っているはずだ。

 

堀江さんが少年の時には道徳の授業を「くだらねぇなー」と思いながらうけていたんだろうなぁと想像できてしまう(笑)

 

個人的には道徳の授業はあってもいいと思うが、せいぜい「困っている人を助けよう」とか「迷惑はお互い様」とか「差別をしない」とかそういうレベルでいいと思う。誰かから「こうあるべきだ。」なんて理想を押し付けられたとしてもそもそもそれが本当に正しいのかなんて答えはないのだから、意味がないだろうというのが僕の考えである。

 

学ぶことは没頭すること

 

この本では学校教育を批判しているわけだけど、じゃあ僕らは一体どーすればいいのだろうか?その問いに対して堀江さんは「学ぶ」ことが大切だと述べている。

 

「えっ?学ぶのが大事なの?だって学校教育批判してるじゃん」と思う方もいるだろう。ここでの学びというのは僕らがパッとイメージするお勉強に限らない。

 

堀江さん曰く「学ぶ」ことは「没頭する」ことであると述べている。少しわかりづらいかもしれない。本書の中で堀江さんが没頭について具体的に述べている個所を引用してみよう。

 

何のために何をするのか、どんな風にするのか、すべてを自分で決め、自ら責任を負いながら突き進む力。新しい時代を楽しく生きるために必須のこの能力を、僕はシンプルに「没頭する力」と呼んでいる。

 

脇目もふらずに、没頭し、がむしゃらに取り組める体験のすべてが「学び」だと僕は思っている。だから、没頭する対象は数学や英語、料理だろうと、ダンスだろうと何でもあり得る。すなわち、その人が心から没頭で来ていれば、対象は何であれ、僕はそれを「学び」ととらえる。

 

堀江さんが考える学びとはジャンルは関係なく、自ら動いて自ら試行錯誤しそれに夢中になってひたすら考えること。学校の授業のように答えがあって、先生が黒板の前で話す言葉を聞いてみんなが同じスタンスで与えられたカリキュラムをを受けるといった受け身のスタンスではないということだ。

 

この没頭という言葉を聞いてパッと思いついたのがプロゲーマーの梅原大吾さんだ。梅原さんはギネスにも載った有名なプロゲーマーだが、彼はまさに堀江さんがおっしゃっていた学びをゲームというジャンルで実践した方だと思う。興味がある方は彼の書籍も読んでみるといいと思う。梅原さんの圧倒的な没頭力に驚かされるはずだ。

 

また本書の中で、没頭した人の一例として『アイスマン福留』という人が紹介されていた。僕のブログでも紹介したことがあるのだけど「コンビニアイス評論家」でめちゃめちゃコンビニのアイスに詳しい人だ。

 

reon5653desu.hatenablog.com

 

僕はこのアイスマン福留という人は最初から「もうコンビニアイスが好きで好きで仕方がない」っていう人なのかと思っていた。ところが、彼は最初にアイスのサイトを立ち上げた時にはアイスへの情熱も知識も人並みだったらしい。

 

だが、そこからの没頭のしかたがすごい。

 

サイトの更新のために毎日アイスを食べ、国立国会図書館で資料を漁り、メーカーへの問い合わせを繰り返す中で、彼のアイス愛と知識はどんどん高まっていった。まさに「没頭するまで続ける」を実行し、「好き」を仕事として成立させてしまったのである。

 

同じようにアイス好きでも、毎日アイスを食べたり、国立国会図書館で資料を読み漁る人はそうはいないだろう。堀江さんが言う「学び」を実行し続けたことで先に繋がった好例である。

 

それにしても最初はアイスへの愛もそこそこだったとは‥‥‥。色々好きなものはあっただろうにその中でなぜアイスで行こうと思ったのかが気になるところだ。

 

そしてこのアイスマンの例からは、僕たち一般人が没頭する対象を見つけるためのヒントが隠されている。

 

僕たちはつい「自分も没頭できる何かに出会いたいんだけど、なかなか見つからないんだ」と考えがちだ。でもそれは順番が逆だと堀江さんは言っている。

 

人は、「没頭が約束されたもの」に取り組んだ時に没頭に至るわけではない。目の前のことにトコトン取り組み、ふと我を忘れた瞬間がやってきた時に初めて、自分がそれに没頭していたことを発見するのだ。つまり、没頭を体験したいのであれば、何でもいいからとことんやってみればいいのである。

 

アイスマンの例などまさにそうだろう。彼はもともとものすごくアイスに詳しいわけでも誰よりもアイスが好きというわけでもなかった。人よりちょっと詳しいとか人よりちょっと好きだぐらいのレベルだった。

 

彼はその小さな好きの種を見逃さずアイスにとことんのめりこんだ。そしていつしか没頭していった。その結果がアイスマンの誕生である。つまり最初は「ちょっと好き」とか「ちょっとおもしろそう」とかそんなレベルのものでいいということだ。それに対してまずはとことんやってみる。そう考えると僕らの周りにも没頭する対象はいくらでもあるのではないだろうか?

 

僕自身も「何かにハマりたい。何か突きつめてやれる対象のものを見つけたい。」と常々思っていたのだが、順番が逆だったのだ。まずは自分の小さな好きや興味を見逃さない。そしてそれをとことんやってみるということ。この事に気づけただけでも良かった。まずはそこから始めていければと思う。

 

学校はうまく利用すればいい。

 

ここからは僕の考えになるのだが、個人的には学校でのお勉強も無駄ではないと思っている。洗脳的な部分があるのは否定できないが、生きていくうえで最低限必要な読み書き、あとは最低限の計算などを効率よく学べるという点で通う価値はあると思う。

 

それに学校では思った以上に色々なジャンルに触れることができる。国、数、社、理、英、体育、美術、音楽、技術家庭、書道など確かに受け身の授業ではあるが、「興味を持つ最初のきっかけ」にはなるはずだ。

 

生徒の中にはもしかしたら歴史の授業を学んで「日本史おもしれー!!戦国時代もっと知りてぇ!!」という人がいるかもしれない。そこから家に帰って本を読むなり図書館で本を借りるなりして自分で調べるようになれば、それはもはや受け身のお勉強ではなく堀江さんが言う「学び」への移行となるだろう。

 

そうやってうまく学校を利用しつつ、自分が没頭できる対象を見つけるようにすればいいんじゃないか?と本書を読みながら思った。

 

まとめ

 

今回は堀江貴文さんの『すべての教育は「洗脳」である 21世紀の脱・学校論』で特にいいなと思った内容と、僕の感想を書いてみた。

 

堀江節炸裂といった感じで、非常に楽しく読める一冊だったし、今後の自分にとっても気づきが多い内容だった。特に「学ぶこと=没頭する」という視点はなるほどと思ったし、僕だけじゃなく、「何かを学びたいんだけど何を学べばいいのかわからない。」と悩んでいる方にはヒントになると思うので、興味がある方は図書館で借りるでも何でもいいので是非読んでみてください♪

 

それでは今回はこの辺で。

最後までご覧いただきありがとうございました。

次回もよろしくお願いいたします。