オバログ

日記から読んだ本や映画の感想、時事問題まで綴るブログです。弱者の戦い方、この社会がどうあるべきかも書いていきます。

ジハーディー・ジョンの生涯という本を読んだ感想を書いてみた。

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今回は普段あまり読まないジャンルの本を読んでみた。

 

 

内容紹介

著者はかつて、当局にイスラム過激派と疑われたために職も婚約者も失ったと訴える、ムスリムの青年を取材したことがあった。クウェート難民としてロンドンで育ち、大学でITを学んだ礼儀正しい青年、ムハメド・エムワジは数年後、イスラム国の黒覆面の処刑人「ジハーディ・ジョン」となり、湯川遥菜さんや後藤健二さんらを斬首することになる。エムワジはなぜ、凶悪なテロリストになったのか。「ジョン」と会った唯一のジャーナリストによる決定的評伝。 彼の足跡を辿ると、欧米社会で育ったムスリムの若者たちが偏見や差別にさらされ、将来に絶望する日々のなかで過激思想に染まっていく状況が見えてくる。テロ対策の名のともにイスラム社会に行っている、抑圧や監視が若者たちの先鋭化につながり、ジハード戦士を生み出す土壌になっている、と著者は指摘する。ジハーディ・ジョンの替えは、いくらでもいるのだ。「クローズアップ現代」でキャスターを務めた、国谷裕子氏の渾身の解説も必読!

引用元:ジハーディ・ジョンの生涯

著者 ロバート バーカイク,国谷 裕子 文藝春秋

 

イスラム国による日本人の拉致殺害事件。未だ記憶に残っている人も多いだろう。僕がこの本に興味を持ったのは日本人の湯川さんや後藤さんがシリアで拉致され殺害された時、ひざまずく彼らの横にいた覆面をした男について書かれた本だからだ。その男は通称「ジハーディー・ジョン」と呼ばれ外国人の人質達の処刑人として知られている。

 

「その男の生涯??」

 

タイトルを見た時に僕はそう思った。彼が難民でロンドンで育ったことはニュースか何かの情報で知っていた。イスラム教徒ではあるが、元々過激な思想をもっていたわけでもない移民の子。欧米の教育を受けて育った彼がなぜ過激な思想に染まり、冷酷に処刑を執行する覆面の男になってしまったのか?彼の生涯をたどる中で過激な思想に染まる原因やそうなることを防ぐ何かヒントが得られるのかもしれない。そんな期待からこの本を読んでみることにした。

 

偏見と差別は過激な思想に染まりやすい

誰でも思いつくような感想で申し訳ないが、本書を読んでみるとやはり偏見や差別によって社会に居場所がないと感じてしまうと過激な思想に染まりやすいと感じた。

 

ジハーディー・ジョンこと「モハメド・エムワジ」も小さいころはサッカーなどを楽しむどこにでもいるような子供だった。本書に書かれている内容を見ると思春期には多少素行が悪かったようなことも書かれてはいるが、かといって冷酷に人を殺すような人とはとても思えなかった。そんな彼が過激な思想に染まったのは差別と偏見が理由の一つであったように思う。

 

イスラム教徒を取り巻く状況は多くのテロ事件の発生と共に徐々に厳しくなっているようだ。実際エムワジ自身もイギリスの諜報機関から監視され続けていたり、自国からの出国拒否も経験している。また仕事を失ってしまったりテロリストと疑われることで婚約を破棄させられたりといったショッキングな出来事にもあっているのだ。相当苦しい思いをしたことは間違いない。

 

「自分はこの国に、この社会に居場所がない」

 

彼の立場になって考えてみるとそう思ったとしても不思議ではない。自暴自棄になっていたとしてもおかしくはない。そうやって居場所がないと感じる人間はどういう行動をとるだろうか??

 

「今の社会の否定と破壊、そして自分にとっての居場所への移動」

 

という行動をとるものがいるのではないだろうか?それらを叶えてくれるのがエムワジにとってイスラム国だったのかもしれない。

 

「ここに自分の居場所がある、ここでなら自分が活躍できる。」

 

自分を弾圧しのけ者にした欧米人や彼らと肩を並べる国の人質たちを殺害することで、彼らの社会を否定する、破壊する。そして、自分たちの国をつくる。ここにこそ自分の居場所がある。

 

差別と偏見、そしてイスラム過激派との接触からエムワジはそんなことを考えたのではないかと推測した。

 

また本書の中で書かれている以下の文章もイスラム国に若者が行く理由として確かにと思わせる。

 

イスラム国に流れた若者には、社会に認められていない、疎外されている、しょせん自分は外国人だというような、共通する心情はあったのだろうが、そうした心情は彼らに限ったものではない。それぞれ自分なりの理由があって、イスラム国に入ったようだ。そこでは何か新しいことに参加できる、「何者か」になれる。冒険できる、帰属感が得られる、アイデンティティと目的が得られる、チャンスのない息が詰まりそうな環境から逃れられる、といったことが魅力的だったのだろう。多くの場合、自分を変えたいという個人的な欲求と関係があったようだ。

引用元:ジハーディ・ジョンの生涯

 

若い人が「何者かになりたい」と思うのはよくあることだし、ものすごい若いころは僕自身も何者かになりたいと思っていた。まぁ、今は「自分は何者もなれない、自分はただの凡人だ」というドライな感覚ではある。

 

しかし仮にそこへ行けば「もしかしたら何者かになれるかもしれない」という希望のようなものを魅せられたら、たとえ周りからはテロリストと呼ばれようとも自らその場所へ行く若い人もいるのかもしれないなとも思う。もちろん、そんなに多くはないだろうけど実際そうやって飛び込んで行くものもいるのだろう。ましてや「何者か」になるのがとても難しい社会だ。その社会から飛び出したい。そういう若者の思いを完全に抑えるのは難しいと思う。

 

最後に

テロは悲劇の連鎖しか生まない。いかなる主張があろうと100%テロには反対だ。自分と違う考えを持つ人間を抹殺するなんて許されることではないと思う。しかしテロを含めた犯罪行為が起こるということは社会のどこかにひずみがあるという証拠でもある。

 

全ての人に平等な社会をつくるのは不可能だ。差別や偏見はおそらくなくならないのだろう。格差があるのも認めよう。しかし、どこかの誰かを差別し偏見によって社会から排除しようとするのは間違いだと思う。それは今ある社会の否定につながり、差別された側からの返す刀で大きな傷を残すかもしれない。悲劇をもたらすかもしれない。

 

「こんな社会はどうでもいい」

 

と誰かに思わせてしまえば、それはその社会を攻撃するきっかけになりうるということだ。僕らはそのことを自覚するべきだと思う。

 

今ある社会が完璧でないことは確かだ。完璧ではない以上、よりよくしようと考えることが必要だ。僕らにできることは何なのだろうか??少なくとも差別や偏見によって誰かを排除することではない。むしろ、誰もが尊厳を持って生きられ、自分はここに居場所があると実感できるような社会を構築することだと思う。自分はこの社会にいてもいいんだと思えることが大事だ。

 

とてつもなく難しいことではあると思うが、本書を読みながらそんなことを考えた。こうすれば正解なんて言うのはなかなか言えない。でも僕がこの本を読んで改めて思ったのは「誰かを排除するような社会になってはならない」ということだ。

 

ジハーディー・ジョンこと「モハメド・エムワジ」は最期アメリカのドローン攻撃によってその生涯を閉じたと言われている。しかし本書の説明にあるように第二、第三のジハーディー・ジョンが生まれる土壌は既にあるように思う。彼の生きてきた足跡から次のジョンが生まれないようにするにはどうしたらいいのか?簡単に答えは出ないけど考えなければならないと改めて思った。

 

それでは今回はこの辺で!!

最後までご覧いただきありがとうございました!

次回もよろしくお願いします!!